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東京高等裁判所 平成3年(行ケ)189号 判決

アメリカ合衆国

カリフォルニア州 92634 フラートン ハーバーブールバート 2500

原告

ベックマン インストルメンツ インコーポレーテッド

同代表者

ウイリアム エッチ メイ

同訴訟代理人弁護士

ウオーレン ジー シミオール

笠利進

同弁理士

齋藤和則

東京都千代田区霞が関3丁目4番3号

被告

特許庁長官

麻生渡

同指定代理人

森田ひとみ

田中靖紘

長澤正夫

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

この判決に対する上告のための附加期間として90日を定める。

事実

第1  当事者の求めた裁判

1  原告

「特許庁が昭和63年審判第21654号事件について平成3年2月28日にした審決を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決

2  被告

主文1、2項と同旨の判決

第2  請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

原告は、1982年8月30日にアメリカ合衆国においてした特許出願に基づく優先権を主張し、1983年8月25日、「γ-グルタミルトランスフェラーゼの活量の定量法および該法用新規の基質溶液を含むキット」とする発明について国際出願(PCT/US83/01299)をし、昭和59年4月29日、特許庁に対して、特許法184条の5第1項に規定する書面を提出し(以下、その明細書の特許請求の範囲第1項に記載された発明を「本願第一発明」という。)、昭和58年特許願第503042号として係属したが、昭和63年8月2日、拒絶査定がされたので、同年12月12日、審判を請求し、同年審判第21654号事件として係属し、平成3年2月28日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決があり、その謄本は、同年4月8日、原告に送達された。なお、原告のために出訴期間として90日が附加された。

2  本願第一発明の要旨

(a)  L-γ-グルタミル-p-ニトロアニリドおよびL-γ-グルタミル-3-カルボキシ-p-ニトロアニリドの塩類からなる群から選んだ基質と;

(b)  2~10個の炭素原子と2~10個の水酸基を含むアルキル・ポリオール、および約200~600の平均分子量を有するポリエチレン・グリコールからなる群から選んだポリオールからなる実質的に無水の基質溶液

3  審決の理由の要点

(1)  本願第一発明の要旨は、前項記載のとおりである。

(2)  昭和56年特許出願公告第14657号公報(以下「引用例1」という。)には、ヒトの血清中のガンマーグルタミルトランスペプチターゼの活性を測定するための基質、即ちガンマー-L-グルタミン酸-パラ-ニトロアニリド(以下「γ-GNA」という。)の安定な高濃度溶液の製法に関する発明が記載されており、第1表には、γ-GNAの安定溶液の比較例としてエチレングリコールを使用した基質溶液が記載されている。

上記記載と本願第一発明とを対比した場合、本願第一発明は実質的に無水の基質溶液であるのに対して、引用例1記載の基質溶液は実質的に無水であることが明記されていない点で両者には相違がある。

しかしながら、引用例1のエチレングリコールを用いる比較例は半減期(時間)498.2であり、それなりに安定した基質溶液であるということができること、昭和55年特許出願公開第26870号公報(以下「引用例2」という。)にはγ-グルタミルトランスペプチターゼの活性測定においてエチレングリコール、プロピレングリコール、グリセリン等のポリオールを添加することが記載されており、また、昭和52年特許出願公開第134087号公報(以下「引用例3」という。)及び昭和52年特許出願公開第134086号公報(以下「引用例4」という。)にも記載されているように分析試薬を安定化するためにポリオールを添加することは本件出願前周知であること、並びに、この分野では水の存在について考慮を払うべきことは必要に応じ普通に行われていること(引用例2の5頁右上欄12行ないし13行、引用例3の特許請求の範囲(1)等参照)、以上総合すると、本願第一発明の実質的に無水のという限定をすることが格別に困難なことであるということはできない。そして、本願第一発明の効果は各引用例の記載から予期されるところを超えて格別に優れているとすることができない。

(3)  したがって、本願第一発明は、引用例2ないし引用例4を参照すると、引用例1に記載された発明(比較例)に基づき当業者が容易に発明をすることができたものであり、特許法29条2項の規定により特許を受けることができない。

4  審決の取消事由

審決の本願第一発明の要旨、引用例1の記載内容、本願第一発明と引用例1の比較例記載の発明との一致点及び相違点の認定は認めるが、相違点に対する判断は争う。

審決は、引用例1の比較例記載の発明の作用効果に対する評価と、分析試薬の分野における水の存在についての考慮の必要性の認識の有無についての判断を誤って相違点に対する判断を誤り、また、本願第一発明の奏する作用効果の顕著性を看過し、もって本願第一発明の進歩性を誤って否定したものであり、違法であるから、取り消されるべきである。

(1)  取消事由1-相違点に対する判断の誤り

審決は、分析試薬を安定化するためにポリオールを添加することは本件出願前周知であること(このことは認める。)の他、〈1〉引用例1のエチレングリコールを用いた比較例は、それなりの安定した基質溶液である、〈2〉分析試薬の分野では水の存在について考慮を払うべきことは必要に応じ普通に行われていることであると認定、判断し、もって、相違点に対する判断において、本願第一発明がその基質溶液について実質的に無水という限定をすることが格別に困難であるということはできない旨判断している。

しかし、〈1〉、〈2〉の認定、判断は誤りであり、したがって、この誤った認定、判断に基づく相違点に対する判断は誤りである。

先ず、〈1〉の判断についてであるが、引用例1の第1表に記載されている基質溶液の半減期(時間)をγ-GNAの塩酸塩につきその溶剤別にみると、メチルセルソルブが240,000時間、ジメチルスルホキシドが722,400時間、ジメチルアルムアミドが361,700時間であるのに対し、比較例のエチレングリコールは498.2時間であり、エチレングルコールを使用した場合の半減期は、メチルセルソルブを使用した場合の1/482、ジメチルスルホキシドを使用した場合の1/1450、ジメチルアルムアミドを使用した場合の1/726となっている。

分析試薬としての貯蔵寿命は、本願明細書の実施例にも記載されているとおり、少なくとも1年以上数年は要求されるものであり、上記比較例のような貯蔵期間の短いものは分析試薬として到底使用できない。

したがって、審決が、引用例1のエチレングリコールを用いた比較例は、それなりの安定した基質溶液である旨判断したことは誤りである。

次に、〈2〉の認定についていうと、審決は、引用例2及び引用例3を挙げて、分析試薬の分野では、水の存在について考慮を払うべきことは必要に応じ普通に行われていることであると認定している。

しかし、引用例2の基質は、γ-グルタミル-p-アミノアニリドに関するものであり、本願第一発明におけるγ-GNAとは異なる物質であり、かつ無水の基質溶液に関する記載はない。

また、引用例3は、助酵素(ニコチンアミド-アデニン-ジヌクレオタイド、還元ニコチンアミド-アデニン-ジヌクレオタイド等)に関するものであり、本願第一発明におけるγ-グルダミルトランスペプチターゼとは異なる酵素である。

この分野における酵素の分析において、全ての酵素に水が同じように悪影響を与えるという結果が得られているならば、審決の認定には妥当性があるといえるが、水の影響の度合い、内容等は、それぞれの酵素によって異なるものであるものであるから、本願第一発明の酵素においても水の存在に考慮を払うことが普通であるということはできない。

したがって、審決の前記認定は誤りである。

(2)  取消事由2-本願第一発明の奏する作用効果の顕著性の看過

審決は、本願第一発明の効果は、各引用例の記載から予期されるところを超えて格別に優れているとすることができないと判断するが、この判断は誤りである。

前(1)で主張したとおり、引用例1のエチレングリコールを用いた比較例での基質溶液の半減期は約21日であるのに対し、本願第一発明の実質的に無水の基質溶液は少なくとも1年以上数年間は安定に貯蔵することができる。この本願第一発明の奏する顕著な作用効果は、各引用例のいずれにも開示も示唆もされていない。

引用例1記載の発明(前記メチルセルソルブ等を用いたもの)の出願の後は、当業者は、その発明の優れた貯蔵安定性(エチレングリコールを溶媒とした基質溶液の貯蔵寿命の数百ないし数千倍の貯蔵寿命を持つ。)を有する基質溶液を見て、不安定なエチレングリコール系基質溶液の使用に興味がなくなっていたと思料される。当業者の興味が引用例1記載の発明による溶媒系及びその他の溶媒系に移行した技術背景下で、不安定なエチレングリコール系基質溶液を安定なものにしようとする研究は技術的にも予算的にも極めて困難を伴ったものと認められる。水の存在が問題となることが全く未知のときに、系内の水の存在の作用効果を追求、認識することは極めて困難性を伴ったものと思料される。

また、本願第一発明の実質的に無水の基質溶液は、貯蔵寿命が極めて長いだけでなく、正確な定量結果が得られ、かつ低いバックグラウンド・カラー及び吸光度になるという顕著な作用効果を奏するものであるのに、審決はこのことを看過している。

したがって、審決の前記判断は誤りである。

第3  請求の原因に対する認否及び被告の主張

1  請求の原因1ないし3は認める。

2  同4は争う。審決の認定、判断は正当であり、審決に原告主張の違法はない。

(1)  取消事由1について

〈1〉 引用例1の第1表の実験1は、γ-GNAの塩酸塩を各種溶媒に溶かしたものを37℃の暗所に放置して一定時間後に分解によって生じたP-ニトロアニリンを定量し、一次反応と仮定してその半減期を求めたものである。

第1表によると、エチレングルコールを溶媒としたときの半減期は498.2時間(約21日)であるが、0.26N塩酸を溶剤とした場合は174時間であり、これと比較すれば、約3倍長くなっている。そして、通常、試薬の保管は冷暗所又は室温以下で行うのが普通であるから、その場合には、498.2時間よりかなり長期の保存が可能である(本願明細書には、実施例3において、5℃で1年の貯蔵は41℃で2日間の貯蔵に近似する旨の記載がある。)。

したがって、引用例1の比較例の基質溶液も、調整後比較的短い期間内に使用するとか、低温で保存して使用する等、使用方法如何では充分使用できるものであり、審決がこれをそれなりに安定した基質溶液であると判断したことに誤りはない。

〈2〉 一般に分析科学の分野において、水の存在が不都合である場合に水をできるだけ除去したり乾燥条件下で保存したりする等の考慮を払うのは当然のことであり、乙第4号証には、水性媒質に不安定で且つ非水性媒質に安定な不安定有機試薬を安定化するために、有機溶剤中に乾燥剤を添加して溶液の残留水分を0.5%以下とすることが、乙第5号証には、β-ニコチンアミド-アデニン-ジヌクレオチドを水を含有しない溶剤(例、エチレングリコール)に溶かして安定化することが、乙第6号証には、試薬であるDSC-GMPの水分含量を3%以下に調整して安定化することがそれぞれ記載されている。

更に、乙第7号証にも水分の存在が悪影響を及ぼす各種組成物に水分除去剤を使用すること及び吸湿性の強い薬品類や吸湿によって変質する物質を乾燥保存するためモレキュラーシーブ(乾燥剤)を用いること等が記載されている。

したがって、水に対して不安定な物質について水の存在につき考慮を払うべきことは必要に応じて普通に行われることであるとした審決の判断に誤りはない。

(2)  取消事由2について

審決が、本願第一発明は各引用例の記載から予期されるところを超えて格別に優れているとすることはできないといっているのは、本願第一発明と引用例1の比較例記載の発明が効果上違いがないというのではなく、本願第一発明の構成の容易性の判断を左右するほどの評価に値する効果はないということである。

γ-GNAが水に不安定であり、水と反応してp-ニトロアニリンとなり、高くて有害なバックグラウンドの色及び吸収光となることは当業者には極めてよく知られていたことで、本願第一発明により初めて明らかにされたことではない。

このことは、引用例1に「長期間の保存に対しては若干基質の分解がみられ測定対象のパラ-ニトロアニリンの遊離がおこるので(略)とは云い難かった」(1頁2欄2行ないし6行)と記載されており、γ-GNAの分解が分析上の問題点であったことが当業界において認識されていたことが認められる。

また、このことは、乙第1号証ないし第3号証により、一層明らかとなる。

乙第1号証には、γ-GNA溶液が不安定であり、グルタミン酸とp-ニトロアニリンとに分解しやすいことが、乙第2号証には、γ-GNAの非酵素的分解により生ずる4-ニトロアニリンがγ-グルタミルトランスペプチターゼの触媒作用を阻害することが、乙第3号証には、γ-GNAの加水分解によって測定に決定的なものである溶液の光学的吸収度が著しく左右されることが記載されているのである。

このように、γ-GNAの不安定性及び分析上の問題点が知られており、水の存在が問題になる場合、系内の水の存在について考慮を払うべきことは必要に応じて普通に行われていること(なお、エチレングリコール等の有機溶媒に水が存在することについては引用例3に明記されている。)等を踏まえるならば、水に対して不安定なγ-GNAを安定化するにあたって、エチレングリコールを実質的に無水にした結果長期の安定性が得られることは、無水にする構成に困難性がなければ当業者が予期し得ることということができる。そして、正確な定量、低いバックグラウンドの色、吸光度等の効果は基質が安定化された結果に付随して得られる効果にすぎない。

したがって、本願第一発明の効果は各引用例の記載から予期されるところを超えて格別に優れているとすることができないとした審決の判断に誤りはない。

第4  証拠関係

証拠関係は、本件記録中の書証目録記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

理由

第1  請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、同2(本願第一発明の要旨)及び同3(審決の理由の要点)は、当事者間に争いがない。

また、引用例1の記載内容、本願第一発明と引用例1の比較例記載の発明との一致点及び相違点が審決認定のとおりであることは、当事者間に争いがない。

第2  そこで、原告主張の審決の取消事由について検討する。

1  本願第一発明について

甲第2号証(明細書)及び甲第3号証(手続補正書)によれば、本願明細書には、本願第一発明の技術的課題(目的)及び構成に関して、次のとおり記載されていることを認めることができる。

(1)  γ-グルタミルトランスフエラーゼは人間の器官に広く分布しているけれども、血清におけるその活量の増加は肝担管の病気あるいは一次要素における肝関係の病気の殆ど確定的な指標である。

γ-グルタミルトランスフエラーゼの活量を定量するために、現在はγ-GNAが殆ど常に基質として使用されている。最近、さらに可溶性のγ-GNAの誘導体、すなわち、L-γ-グルタミル-3-カルボキシ-p-ニトロアニリドがγ-グルタミルトランスフエラーゼの分析に別の基質として開示された。

L-γ-グルタミル-3-カルボキシ-P-ニトロアニリド及びγ-GNAの先行技術の溶液は、現在用いられている水性環境では安定性及び溶解度の問題に苦しんでいる。例えば、貯蔵寿命の比較的短いL-γ-グルタミル-3-カルボキシ-p-ニトロアニリド及びγ-GNAの水溶液は、これら製品の貯蔵寿命を長くするために凍結乾燥をする必要がある。その凍結乾燥品を戻すためには、水に入れ、得られた混合体を約50℃まで加熱する必要がある。この戻し工程は、時間の浪費であって、得られた試薬の変動並びに基質の減損を増すことになる。その上、凍結乾燥プロセス自体がロツト毎の変動を大きくする。

本願第一発明は、生成の基質溶液の安定性が高く、先行技術にみられる溶解度の問題を解決するように基質溶液がマトリックスに溶解した基質からなるところのγ-グルタミルトランスフエラーゼ分析用の新規基質溶液を開発することを技術的課題(目的)とする(明細書1頁16行ないし2頁末行)。

(2)  本願第一発明は、前項記載の技術的課題(目的)を達成するために、その要旨とする構成(特許請求の範囲1項記載)を採用した(手続補正書別紙1頁2行ないし10行)。

そして、本願第一発明は、前記(1)の背景技術を踏まえて創作されたものであること及び前掲甲第2号証によれば、本願明細書には、「第Ⅱ表に示すデータは本発明のγ-グルタミルトランスフェラーゼ試薬の高安定性を示す。」(明細書12頁1行、2行)と記載されていることが認められることに照らし、本願第一発明の奏する作用効果は、従来技術に比して基質溶液の安定性が高く、かつ凍結乾燥をする必要性がないことにあるということができる。

2  取消事由1について

(1)  原告は、先ず、審決が相違点について、引用例1のエチレングリコールを用いた比較例はそれなりの安定した基質溶液であると判断したことの誤りをいう。

成立に争いのない甲第4号証の1によれば、引用例1は、発明の名称を「ガンマー-L-グルタミン酸 パラ-ニトロアニリドの安定な高濃度溶液の製法」(1欄1行、2行)とする発明に係るものであるが、発明の詳細な説明には、「本発明は肝疾患の診断用試薬に関し、更に詳しくはヒト血清中のガンマーグルタミルトランスペプチターゼ(略)の活性を測定するための基質即ちガンマー-L-グルタミン酸-パラ-ニトロアニリド(以下γ-GNAと略記する)の安定な高濃度溶液の製法に関する。」(1欄28行ないし33行)と記載されており、また、第1表において、基質の溶剤中における分解試験(γ-GNA150mgに相当する酸付加塩あるいはγ-GNA150mg及び当量の酸を各種溶剤6mlに加えて溶かし、37℃の暗所に放置して一定時間後に分解によって生じたパラ-ニトロアニリンを定量し、一次反応としてその半減期を求めたもの)(3欄1行ないし7行)の結果が示されており、これによれば、前記の半減期は、溶剤がメチルセルソルブの場合は240,000時間、ジメチルスルホキシドの場合は722,400時間、ジメチルアルムアミドの場合は361,700時間であるのに対し、比較例のエチレングリコールの場合は498.2時間、0.26N塩酸の場合は174時間となっていることが認められる。

これによれば、エチレングリコールを用いた基質溶液の半減期は、メチルセルソルブ等を用いた基質溶液に比して極めて短いことが認められる。

しかし、このことからエチレングリコールを用いた基質溶液がそれなりに安定した基質溶液であるとした審決の判断を誤りとすることはできない。

そもそも、審決の前記の判断は、メチルセルソルブ等を用いた引用例1記載の発明の基質溶液との安定性の比較においてされたものではなく、エチレングリコールを用いたγ-GNAの基質溶液をγ-グルタミルトランスペプチターゼの活性測定のための試薬として当業者が用いるものか否かという観点で評価したものであることは、審決の理由の要点から明らかである。

前認定のとおり、引用例1の第1表には、比較例として掲げられている0.26N塩酸の場合の半減期は174時間と記載されているが、これはエチレングリコールを用いた基質溶液の約3分の1の期間である。

そして、成立に争いのない乙第2号証によれば、昭和57年特許出願公開第74099号公報(昭和57年5月10日発行)には、「γ-グルタミルトランスペプチターゼ(略)の活性測定には、現在、種々の基質が用いられているが、中でも、L-γ-グルタミル-4-ニトロアニリド(以下Glu-4-NAと略記する)を用いる方法は、(略)最も盛んに行われている方法である。

ところで、このGlu-4-NAを用いる方法は、Glu-4-NAが、水に対して非常に難溶性であり、かつ、不安定で分解し易いという欠点を有している。そこで、このGlu-4-NAの溶解性を増大せしめるために、従来、一般には、塩酸、有機溶媒、あるいは界面活性剤などを付加的に用いる方法や、熱を加える方法などが行われている。」(1頁左下欄17行ないし右下欄12行)と記載されていることが認められ、γ-グルタミルトランスペプチターゼの活性測定のための基質の溶液に塩酸を用いることが示されている。

そうすると、前記比較例において、エチレングリコールを用いた基質溶液は、従来、試薬として使用されていた塩酸を溶媒とする基質溶液より高い安定性を有していることが示されていることになる。

前記比較例においてエチレングリコールを用いた基質溶液の半減期は498.2時間(約21日)であるが、それは37℃という高温下での結果である。しかし、分析試薬の保存は室温以下で行われるのが通常であるところ(この被告の主張に対しては原告は明らかに争わない。)、前掲甲第2号証によれば、本願明細書に「その新しい試薬は、次に包装して、5℃で1年の貯蔵に近似させるために41℃で2日間温置した。」(10頁9行、10行)と記載されていることが認められることから分かるとおり、低温下では分析試薬の保存期間は大幅に伸びるものである。

そうであれば、引用例1のエチレングリコールを用いた比較例は、当業者がγ-GNAの安定的な基質溶液として用いることを想到するものであるということができる。

原告が強調するとおり、前記エチレングリコールを用いた比較例の半減期は、引用例1記載の発明の基質溶液に比して極めて短いことは確かであるが、エチレングリコールを用いた基質溶液が前記のとおり安定性を有する以上、当業者はエチレングリコールを用いた基質溶液を、そのまま、あるいは改良を施して分析試薬として用いることを顧慮しなくなるということはできない。

したがって、審決の前記判断に誤りはない。

(2)  次に、原告は、分析試薬の分野では、水の存在について考慮を払うべきことは必要に応じ普通に行われていることであるとの審決の認定の誤りを主張する。

もっとも、原告は、一般論として審決のこの認定の誤りをいうものではなく、本願第一発明の構成を想到することが容易であるとの審決の判断の誤りをいう根拠として、本件出願前には、本願第一発明で用いるγ-GNA及びL-γ-グルタミル-3-カルボキシ-P-ニトロアニリドの塩類に対して水の存在が不都合であるという認識はなく、本願第一発明において初めて明らかにしたことであるというものである。

そこで、この点について検討する。

前掲乙第2号証によれば、昭和57年特許出願公開第74099号公報には、「本発明者らは、Glu-4-NAを基質として、γ-GTP(注 γ-グルタミルトランスペプチターゼ)の酵素活性の測定を行う方法につき、種々研究を行ったところ、反応系にシクロデキストリンを添加すると、Glu-4-NAの溶解性を著しく高めるとともに、Glu-4-NAの水又は緩衝溶液における非酵素的分解を抑制し得ることを見出した。」(2頁左上欄17行ないし右上欄3行)と記載されていることを認めることができ、また、成立に争いのない乙第4号証によれば、昭和55年特許出願公開第13900号公報には、「溶剤には1つ以上の有機試薬を加えることができ、また、所望の際は、試薬用可溶化剤を使用することができる。例えば、ガンマ-グルタミルパラニトロアナリド(「アナリド」は「アニリド」の誤記と認める。)(GGP)、即ち極性有機試薬を、無水ジメチルスルホキシドで、または無水ジメチルスルホキシド(70%V/V)で無水アセトン(30%V/V)の望ましい溶剤混合液で安定化する。(略)次に、この溶液を使用して、人間の血清またはプラズマのような生物体に於ける流動体の生理学的に重要な酵素であるガンマ-グルタミルトランスペプチターゼの診断定量を行う。当該試薬の冷凍温度(2乃至8℃)における有効安定化期間は、水溶液内における同一保存条件下での該試薬の最長安定化期間が数日間にすぎないのに対して、数年間と長い。

本発明では、加水分解性不安定試薬を、試薬の加水分解と分解を防止することにより有機溶剤溶液内で効果的に「安定化」した。」(6頁左上欄2行ないし右上欄4行)と記載されていることを認めることができる。

前認定の各公報の記載によれば、本件出願当時、L-γ-GNAを用いてγ-グルタミルトランスペプチターゼの活性測定を行う試薬においては、γ-GNAの加水分解を防止し、その安定化を図ることが周知のことであったと認めることができる。

なお、本願発明における基質はγ-GNA又はL-γ-グルタミル-3-カルボキシ-P-ニトロアニリドの「塩類」とされており、γ-GNAそのものではない。

しかし、前認定の引用例1の記載事項によれば、引用例1記載の発明の目的は、γ-GNAの安定な高濃度溶液の製法を提供することにあるが、その結果が第1表としてまとめられた実施例(例1)においては、γ-GNAの酸付加塩を各種の溶剤に溶かして一定時間経過後に分解たよって生じたパラ-ニトロアニリンを定量してその半減期を求め、もってその溶液の安定性を測ったものであることからすると、γ-GNAの酸付加塩を溶剤に溶かした溶液も、その基質はγ-GNAであるということができる。

このことからすると、γ-GNAの酸付加塩を溶剤に溶がした溶液においても、水が存在すれば、その基質であるγ-GNAが加水分解して、パラ-ニトロアニリンの遊離を起こすことは前記引用例1の記載事項から当業者が容易に読み取ることができるものである。

したがって、γ-GNAの酸付加塩に対して、水の存在が不都合であることは公知のことであったと認めることができるのであるから、原告の前記主張は理由がない。

(3)  そして、成立に争いのない甲第4号証の3によれば、引用例3の特許請求の範囲(1)には、「室温及び冷凍温度下で液体であり、熱反応の水と混和する有機溶剤に助酵素を溶かす処置、混合物を形成するために少なくとも1%の不活性で、表面積の大きい、粒子状の吸湿剤を溶液に加える処理、混合物を攪拌し、そこから残りの水分が、0.5%低下にまで水分を除去する処置、及び混合物をシールする処置を含むことを特徴とする水媒中で不安定な、不安定助酵素を安定化する方法。」(1頁左下欄6行ないし14行)、発明の詳細な説明に、「有機溶剤は次のような特殊性をもっているものでなければならない。1 水分が少ないこと(痕跡0.1%以下)(略)中性又はアルカリpHの反応しない有機溶媒(略)、例えば(略)エチレングルコール(略)がよい。」(5頁左上欄16行ないし右上欄11行)と記載されていることが認められることからして、エチレングリコールに水分が含まれていることは、本件出願前公知のことであったと認められる。

以上のことからすると、審決が本願第一発明がその基質溶液につき実質的に無水という限定をすることが格別困難であるということはできないと判断したことに誤りはなく、原告の審決の取消事由1の主張は理由がない。

3  取消事由2について

原告は、審決が本願第一発明の効果は各引用例の記載から予期されるところを超えて格別に優れているとすることができないと判断したことの誤りを主張する。

しかし、本願第一発明の基質溶液を実質的に無水とする構成が当業者が容易に想到することができるものであることは前2で判示したとおりである。

そして、基質溶液を実質的に無水とする目的が、基質溶液の水の存在が不都合であるため、水を除去し、以て基質溶液の安定性を高めるところにあることは明らかである。

そうであるならば、本願明細書に記載されたところの、基質溶液を実質的に無水とする構成を採用することにより基質溶液の安定性が高まり、貯蔵寿命が長くなること、またそのことから、従来の基質の減損等の弊害のある冷凍乾燥の方法を取る必要がなくなるということは、基質溶液を実質的に無水とする構成を想到する当業者が正に意図する作用効果であるということができる。

勿論、基質溶液を実質的に無水とすることにより、そうでない基質溶液と比べてどの程度安定性が高まり、貯蔵期間が伸びるかは試験をしてみなければ判明しないことであるが、その試験をすることを想到すること(即ち、基質溶液を実質的に無水とする構成を想到すること)が当業者にとって容易である以上、基質溶液を実質的に無水とすることにより安定性が高まり、貯蔵期間が大幅に伸びるという試験結果が生じたとしても、それをもって直ちに、構成の想到容易性にもかかわらず発明の進歩性が肯定されるところの作用効果の顕著性があるということはできない。

原告は、本願第一発明の構成によれば、基質溶液を1年以上の期間、安定に貯蔵できると主張し、また、甲第4号証の5(原告作成の実験報告書)を提出し、水を含むエチレングリコールを用いた基質溶液と無水のエチレングリコールを用いた基質溶液の半減期を比較して無水とすることの効果を証明しようとするが、それらは単に無水とすることにより基質溶液の安定性を高めるという作用効果があることを主張し、証明するにすぎないものであり、そのことから、本願第一発明の作用効果が、審決が本願第一発明の基質溶液を実質的に無水とする構成を想到することが容易であることの判断の根拠とした各引用例から予期できない作用効果を奏することの根拠とはなりえないものである。

また、原告の主張する、正確な定量結果が得られ、かつ低いバックグラウンド・カラー及び吸光度になるという本願第一発明の奏する作用効果は基質溶液の安定性が高められることの付随的効果にすぎないから、これをもつて格別のものとすることはできない。

以上のことからすると、審決が本願第一発明の作用効果は各引用例の記載から予期されるところを超えて格別に優れているとすることはできないと判断したことに誤りはない。

4  以上のとおり、原告の審決の取消事由の主張は理由がなく、審決には原告主張の違法はない。

第3  よって、審決の違法を理由にその取消しを求める原告の本訴請求は理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担及び上告のための附加期間を定めることにつき、行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条、158条2項の規定を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 竹田稔 裁判官 成田喜達 裁判官 佐藤修市)

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